朝鮮王朝の年表5〔1694-1811年〕

 

粛宗、英祖、正祖という王の統治時代は韓国時代劇でもよく描かれています。果たして、どんな出来事があったでしょうか。

◆1694年から1775年まで

〔1694年〕粛宗(スク)(チョン)は、「奸臣(かん)(しん)にそそのかされて間違って処分してしまった」と語って、仁顕王后の復位を重臣たちに通告。それは、王妃になっていた張禧嬪の側室への降格を意味していた。
〔1701年〕8月に仁顕王后が病死。王妃に復帰して7年だったが、彼女は粛宗の子供を産むことができないまま34歳で世を去った。その直後、淑嬪・崔氏の訴えにより、張禧嬪が神堂をつくって仁顕王后を呪い殺そうとしていたことが発覚する。粛宗は重臣たちを前に、「すでに罪が明らかになったのに、適切な方法を取らなければ後悔することになる。国家のためにも、張禧嬪を死罪にせよ」と厳命する。張禧嬪が世子の生母であることを理由に重臣たちは猛反対するが、粛宗は決定を変えなかった。こうして、張禧嬪は42歳で毒を飲んで絶命する。




〔1720年〕粛宗が59歳で亡くなり、張禧嬪との間に生まれた32歳の息子が20代王・景宗(キョン)(ジョン)として即位する。
〔1724年〕在位4年2カ月で景宗が世を去り、淑嬪・崔氏が産んだ粛宗の息子が21代王・英祖(ヨン)(ジョ)として即位する。彼は、各派閥から公平に人材を採用する政策で成果を挙げる。
〔1762年〕英祖が素行の悪さを理由に息子の荘献(チャン)(ホン)を厳罰に処す。荘献は米びつに閉じ込められて餓死するが、彼の死の背後には激しい派閥争いがあった。もともと、景宗を支持していたのが少論派で、英祖を支えていたのが老論派だった。英祖の治世となって老論派が勝利したのだが、荘献と老論派は相性が悪かった。結果的に老論派が荘献の排除に動き、尾ひれをつけて荘献の行状を英祖に報告していたのである。荘献の死後、後悔した英祖は息子に「思悼世子(サ)(ド)(セ)(ジャ)」という号を贈る。
〔1775年〕英祖が「気力が衰えてきて一つの政務を行なうことも難しくなってきた」と語り、荘献の息子を摂政にすると主張。重臣たちの多くが反対したが、英祖は軍の介入までちらつかせて強行する。

朝鮮王朝の年表6〔1812-1910年〕

朝鮮王朝の年表3〔1494-1591年〕

朝鮮王朝の年表4〔1592-1689年〕




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