粛宗(スクチョン)は張禧嬪(チャン・ヒビン)の息子を後継者にしたかった!

大物高官が異議を唱えたが……

粛宗の言葉が続く。
「なるべく早く元子に決めようとしているのに、なぜ早すぎると決めつけるのか。昨年5月、夢の中にどこかの男が出てきたので、『いつ息子をさずかるだろうか』と聞いたら、その男は『すでに懐妊していて、男子です』と答えた。それを聞いてとてもうれしかったし、その夢がようやく現実になったのだ」
そう言って粛宗は元子決定を急ぎたいと大臣たちに迫ったが、相変わらず大臣たちは否定的だった。
すると、粛宗は「すでに余が決めたことである」と言って反対論を封じた。




5日後の1689年1月15日、張禧嬪は慣例にしたがって品階が正一品の嬪(ピン)に昇格した。
この張禧嬪が産んだ息子は粛宗の強気な希望で元子となったが、1689年2月1日に宋時烈(ソン・シヨル)が異議を唱えた。儒教思想の大家であった宋時烈は1607年に生まれ、16代王・仁祖(インジョ)の時代から国の重要政策に関わり、17代王・孝宗(ヒョジョン)には自ら帝王学を授けていた。
これほどの超大物が、82歳という高齢にもかかわらず、粛宗に意見を述べに参内した。宋時烈は西人派(当時の主流派閥で仁顕王后を支持していた)の巨頭でもあったが、粛宗の元子の決定が早すぎることを批判した。
この上訴は、宋時烈自身と西人派の寿命を短くする結果を生んでしまった。というのは、粛宗が宋時烈の上訴の反証を次々に用意して、ついに宋時烈を門外出送(官職を剥奪して都から追放する刑罰)にしたからだ。この当時、西人派が政権を牛耳っていたが、南人派の張禧嬪が王子を産んだことで、形勢はガラリと変わっていった。
それほど、張禧嬪が粛宗の息子を産んだことは大事件であった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)



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