鬼のような文定(ムンジョン)王后/朝鮮王朝人物実録6

息子の命を縮めたかも

仁宗は即位してわずか8カ月で病に倒れた。一説によると、文定王后が差し出した餅を食べたことが原因だという。普通なら、自分を殺そうとしている人間が持ってくる食べ物を警戒するものだが、仁宗は継母の土産を喜んで口に運んだ。あまりに善人すぎて命を縮めた感も否めない。
1545年、仁宗が若くして亡くなり、慶源大君が13代王・明宗(ミョンジョン)として即位した。
このとき、明宗はわずか11歳であった。政治を動かせる年齢ではない。必然的に、文定王后が政治を代行することになった。
そして、文定王后は政治的にわがまま放題にふるまい私腹を肥やした。また、政敵を陥れるために手段を選ばず、恐怖政治で宮中を取り仕切った。




それが明宗をどれほど悩ませたことか。
彼が「涙の王」と称されるのは、母の一派(弟の尹元衡〔ユン・ウォニョン〕や手先の鄭蘭貞〔チョン・ナンジョン〕)が横暴にふるまう度に涙を流さざるをえなかったからだ。やがて心労が重なって病気がちになった。
文定王后は権勢を保ったまま1565年に64歳で世を去った。明宗も母の死から2年後に33歳で亡くなった。
息子の命を縮めたかもしれない文定王后。罪な母親であった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)
記事提供:「ロコレ」

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