518年間続いた王朝の終焉

 

26代王の高宗(コジョン)が即位したときにまだ11歳でした。父の興宣大院君(フンソンデウォングン)が摂政を行ないましたが、彼は荒廃していた景福宮(キョンボックン)の再建に乗り出しました。




外圧が強まる

景福宮は1592年に豊臣軍の攻撃を受けたときに焼失していて、以後は荒廃したままでした。
しかし、再建には莫大な資金が必要で、それが庶民への増税に結びつきました。
また、興宣大院君は鎖国政策を強化する過程でカトリック教徒を弾圧しましたが、フランスの神父9人が殉教する事件も起きました。
フランス政府は報復として1866年に都の漢陽(ハニャン)に近い江華島(カンファド)を一時的に占拠しました。
このときはフランス軍がなんとか撤退したのですが、その2カ月後には、通商を求めてやってきたアメリカの商船ゼネラル・シャーマン号が、朝鮮王朝側の軍艦と衝突して沈没するという事件が勃発しました。
5年後の1871年、アメリカ側は損害賠償と通商の許可を求めて江華島に侵入。相次ぐ欧米各国の軍事行動で朝鮮王朝は恐怖にさらされます。
その当時、政権の内部では、高宗の妻である明成(ミョンソン)皇后と父の興宣大院君による主導権争いが激化していました。明成皇后は日本でも閔妃(ミンビ)として知られる女性です。
再び勢道政治にならないように、興宣大院君は力の弱い一族から高宗の正妻を迎えました。しかし、明成皇后はとても有能な女性で、自分の一族を政権の要職に採用する機会をうかがいながら、1873年には政変を起こして興宣大院君を失脚させています。




開化派の「三日天下」

日本も明治新政府になってから朝鮮半島に触手をのばします。1875年9月に日本の軍艦が江華島の沖で挑発的な行動を取ったことで軍事衝突に発展。これを機に、日本は朝鮮王朝に開国を迫りました。
朝鮮王朝は武力を背景にした日本の要求を拒めませんでした。
翌年2月、日本と朝鮮王朝の間で修好条規が締結され、朝鮮王朝は開国を余儀なくされました。
以後、朝鮮王朝はアメリカ、フランス、ロシアとも通商条約を結びましたが、これらは武力に威嚇されて結んだ不平等条約でした。まさに、外交の敗北と言えます。
政権を掌握して開国政策を進めた明成皇后は、興宣大院君が仕掛けた政変で1882年に追放されます。しかし、彼女は清に助力を求めて巻き返しをはかり、再び王朝内で主導権を奪い取ります。その結果、清の影響力が極端に強くなりました。
これに対して不満をあらわにしたの開化派でした。彼らは明治維新や福沢諭吉に影響を受けた親日派が中心で、1884年12月にクーデターを起こして一時は王宮を支配しますが、清の軍隊の介入によってそれも「三日天下」で終わってしまいます。




国号は「大韓帝国」

内政でも外交でも混迷をきわめる朝鮮半島。1894年3月には、農民が重税に抗議して内乱(甲午農民戦争)が起こりますが、これをきっかけにして、朝鮮半島での利権を争っていた日本と清が衝突して日清戦争が始まります。
日本はこの戦いに勝利して、朝鮮半島から清を追い出しました。清に頼っていた明成皇后は次にロシアに近づきましたが、その動きを察知した日本は1895年10月に明成皇后を暗殺しました。
この事件に恐怖を感じた高宗は、1896年2月にロシア公使館にたてこもり、親日派の高官たちを逆賊として厳しく処罰。やがて1年ぶりに王宮に戻った高宗は、1897年10月に国号を「大韓帝国」と改め、自ら皇帝を名乗るようになりました。
ロシアが大韓帝国の後ろ楯になっていることに危機感を感じた日本は、ロシアとの対決姿勢を鮮明にしていきました。その結果、1904年2月に日露戦争が起こりましたが、勝利した日本は1905年11月に大韓帝国の外交権を奪い、首都の漢陽に統監府を設置して内政にも干渉しました。
(ページ2に続く)

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