奇妙な三角関係!粛宗(スクチョン)と張禧嬪(チャン・ヒビン)と仁顕王后

 

朝鮮王朝19代王・粛宗(スクチョン)は、統治していた時代に多くの功績を残しているが、その一方で多くの女性問題を起こしている。いったい、なぜそのようなことになったのだろうか。




粛宗の誤った判断

粛宗は、18代王の顕宗(ヒョンジョン)と明聖(ミョンソン)王后の間に生まれた。1674年に父親の顕宗が世を去り、13歳で19代王となった。
1680年、宮中で女官として働いていた張禧嬪を見かけた粛宗は、彼女の美貌に一目惚れして、張禧嬪を側室にした。
張禧嬪は、粛宗の母親の明聖王后によって王宮から追い出されてしまう。しかし、1683年に明聖王后が世を去ると、粛宗の妻である仁顕(イニョン)王后の助言もあって張禧嬪は王宮に戻ることができた。
本来なら、張禧嬪は仁顕王后に感謝するべきなのだが、彼女はお礼を言わずにわがままに振る舞うようになった。
1688年に、張禧嬪が後の20代王・景宗(キョンジョン)となる息子の昀(ユン)を産むと、粛宗は高官たちに反対されながらも、仁顕王后を廃妃(ペビ)にして張禧嬪を王妃にした。
一方、側室から王妃に昇格した張禧嬪は、贅沢三昧の日々を過ごしていた。




しかし、そんな張禧嬪の幸せは長くは続かなかった。なぜなら、韓国時代劇『トンイ』の主人公で有名な淑嬪(スクビン)・崔(チェ)氏が現れたからである。
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