李芳遠(イ・バンウォン)は太宗(テジョン)となっても継母を恨んだ

250年の歳月

神徳王后の墓は、王妃として最高の格式で都の中心部に造られていた。
そのことに腹をたてていた李芳遠は、1409年以降に神徳王后の墓を次々に移して格下げにした。
「あまりにやりすぎでは……」
側近たちは諌(いさ)めた。
しかし、李芳遠は耳を貸さなかった。
ついには、神徳王后の王妃としての祭祀まで廃止させた。
それでも、腹の虫がおさまらなかった。




執念深かった李芳遠は、最後には神徳王后の墓を徹底的に破壊した。そこまで憎んでいたのだ。
以後、神徳王后の墓はみすぼらしく放置された。
彼女が名誉を回復して王妃として再び祀られるようになったのは、ようやく250年ほど経った後だった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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