政変の原因!首陽大君と安平大君の対立

頼もしい二人

そもそも、世宗は自分の息子たちを重用した。子をかわいがる気持ちもあったが、それよりは臣下たちを牽制する目的が大きかった。
朝鮮王朝の建国初期から、王と臣下たちは常にお互いを牽制し合っていた。
王宮に一人孤立している王は、間違えると臣下に振り回される恐れがあった。
それをよく知っていた世宗は、王の兄弟たちが力を合わせて王を助け、王室を守ってくれることを望んでいた。
世宗が息子たちを重用することによって、彼らは無視できない政治的な力を持つようになった。
特に二男の首陽大君と三男の安平大君(アンピョンデグン/1418年生まれ)がもっとも頼もしかった。
世宗はいつも首陽大君と安平大君に同じ仕事をさせた。
天文観測やお経の翻訳、世宗の陵の場所を決めることなど、国家の重要事業を二人が一緒に管理するようにした。




世宗の晩年には、王命を伝えることも二人がやっていた。王家の中でも重要な位置にいる大君(正室が産んだ王の息子)たちの一人に一方的に権力が偏ると、後に王権の脅威になると考えた配慮だった。
長く一緒に政治に参加していた二人だったが、兄弟愛よりも競争心が強かった。
武人的な資質を持っていた首陽大君に対して、安平大君は詩、書、画に長けた芸術家だった。
特に書は中国までその名がとどろき、彼の書がほしいと願う人が多いほどであった。それだけに、安平大君の自負心も兄である首陽大君に負けなかった。
二人の大君の力が大きくなるにつれて、彼らのまわりには人が集まり始め、彼らがライバル的な関係になると、王宮では首陽大君派と安平大君派ができて、対立するようになっていった。
やがて、その対立がおぞましい政変に結びついていったのだが……。

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