張禧嬪の正体!謎多き魔性の女

死罪となった張禧嬪

張禧嬪は王の寵愛を受けて王妃にまでなったのだが、その寵愛を失えば結果は見えていた。ちょうど政変が起きて、張禧嬪の後ろ楯となっていた派閥が力を失うと、張禧嬪の立場はとたんに弱くなった。
ひんぱんに心変わりする粛宗は、1694年に今度は張禧嬪の廃妃と仁顕王后の復位を決めた。
さらに、淑嬪・崔氏が男子を産んだ。粛宗にとっては次男にあたる王子だった。
一方、せっかく王妃に復位した仁顕王后だが、病弱であったことがわざわいして1701年に34歳で世を去った。
その後に、淑嬪・崔氏の証言によって、張禧嬪が仁顕王后の死を願って呪術を繰り返していたことが暴露された。
粛宗の怒りは尋常ではなかった。
「大罪である。死罪にせよ」
この王命には高官たちが反対した。すでに張禧嬪が産んだ王子が世子に決まっていたからだ。将来王になる男の母が死罪となれば、後々に禍根を残す可能性が高かった。翻意を求められた粛宗ではあったが、最終的に死罪を取り消さなかった。




1701年、張禧嬪は42歳で絶命した。
以後、「善の仁顕王后」対「悪の張禧嬪」という図式が残り、張禧嬪は酷評を受け続けてきた。
張禧嬪は、世間が言うほど本当に悪女だったのか。
そのように疑問に思うのは、張禧嬪に関する世間の評判が「朝鮮王朝実録」の記述のみに依っているからだ。ここで、その記述の背景を見てみよう。
粛宗は在位が46年間に及んだので、実録をまとめる作業に大変な時間がかかった。しかも、次の王となった景宗(キョンジョン/張禧嬪の息子)が在位4年で世を去ったために、その作業は英祖(ヨンジョ)に引き継がれた。
それを機に編集責任者が交代し、実務担当者は英祖の息がかかった者ばかりになった。英祖は淑嬪・崔氏の息子であり、その母は張禧嬪と対立していた。こうした経緯もあって、「朝鮮王朝実録」の編集作業は張禧嬪に不利な形になってしまったのだ。
張禧嬪は果たして、悪女だったのか。
あるいは、人物像を歪められただけなのか。
彼女の正体は謎だらけだ。それがかえって興味津々な人物像となり、韓国時代劇に何度も登場するほどのキャラクターになった。
いずれにしても、一介の女官から王妃になり、その王妃から転落して最後に死罪となる人生は、ドラマにふさわしいほどに波瀾万丈だった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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