人格に優れていた20代王・景宗(キョンジョン)/朝鮮王朝国王列伝20

 

生没年/1688年~1724年
在位/1720年~1724年

1720年、19代王・粛宗(スクチョン)は死の間際に「次の王は昀(ユン)である」と遺言を残した。その指名のとおり、昀は20代王・景宗(キョンジョン)として即位した。彼は、悪女として有名な張禧嬪(チャン・ヒビン)の息子でもあった。





派閥争いに巻き込まれた景宗

張禧嬪といえばライバルは淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏である。その淑嬪・崔氏の息子だった延礽君(ヨンイングン)は一旦は王座をのがした。
誰が王になるかで激しく争っていた宮中だが、景宗が王になってもその動揺は終わらなかった。景宗派と延礽君派は常に相手の失脚を計画していた。
先手を打ったのは延礽君派だった。彼らは宮中の大多数を占めるようになり、景宗に圧力をかけ始めた。こうなると、景宗派はがぜん殺気だち、延礽君を殺そうとする動きにまで発展した。
身の危険を感じた延礽君は、周囲に「自分は王になる気はない」と明らかにした。勢いに乗った景宗派は多数派工作を仕掛けて宮中を手中に収めた。
しかし、肝心の景宗が1724年、持病を悪化させて36歳で亡くなってしまった。
「朝鮮王朝実録」は景宗についてこう記している。




「殿下は天性と言えるほど慈(いつく)しみにあふれ、人徳があった。孝を尽くし、幼い頃から学問に励み、物欲のない方だった。人々は神聖にして徳があると讃えた。しかし、憂いが積もって病を得て、それがつらくなるにつれて国を治めることに専念できず、御前会議でも一貫して沈黙し、政治を臣下たちにまかせた。それでも、お亡くなりになられた日には臣下や民衆の間で嘆き悲しまない人がいないほどであった。誰もが哀悼し、慕い、敬っていたのだ」
死罪になった母のせいで党派争いに巻き込まれた景宗だが、人格は称賛されたのである。

『テバク』の歴史解説/粛宗(スクチョン)の後継者争い

『テバク』に登場する粛宗(スクチョン)の息子たちの運命は?

悪女と言えば張禧嬪(チャン・ヒビン)/朝鮮王朝悪女列伝5

トンイと争った張禧嬪(チャン・ヒビン)の生涯(前編)

英祖(ヨンジョ)の生涯1/なぜ思悼世子(サドセジャ)を餓死させたのか



関連記事

ページ上部へ戻る