光海君(クァンヘグン)は本当は何をしたのか?

 

朝鮮王朝27人の王の中で暴君と称される10代王・燕山君(ヨンサングン)と、15代王・光海君(クァンヘグン)。しかし、近年では光海君の業績を見直そうとする動きがある。果たして、光海君は暴君なのか。それとも名君なのか。歴史を紐解いてみる。





混迷する後継者争い

朝鮮王朝13代王・明宗(ミョンジョン)には跡継ぎがいなかったため、自身の跡継ぎを11代王・中宗(チュンジョン)の孫の中から選出する。こうして、王となったのが14代王・宣祖(ソンジョ)である。
自身の出自をとても気にしていた宣祖は、自分の跡継ぎには正室から生まれた嫡男を指名したいという気持ちを強く持っていた。しかし、 正室の懿仁(ウィイン)王后は子供を産まなかった。
王の後継者がいつまでも不在なのは問題だったため、宣祖は側室の息子の中から跡継ぎを選ぶ必要にかられた。その候補になったのが、長男の臨海君(イムヘグン)と二男の光海君だ。
本来、朝鮮王朝では「長男が後継ぎとなる」という原則があり、臨海君が後を継ぐのが当然だった。しかし、臨海君は性格が粗暴で王の資質に欠けていた。
1592年、後継者選びが決まる前に豊臣秀吉による朝鮮出兵が起きた。朝鮮王朝は圧倒的な軍事力をもつ豊臣軍の前に敗北が続き、王である宣祖は都を捨てて逃げ出して、臨海君も捕虜にされてしまう。




一方、二男の光海君は地方で義兵を募ったりなど、大きな功績を残した。その結果、宣祖は光海君を後継者に指名しようとした。そこに待ったをかけたのが、中国大陸の大国・明だ。当時、朝鮮王朝では王の後継者を決める際に、明にお伺いを立てなければならなかった。しかし、明は「長男が健在なのに、二男が跡継ぎになるのはおかしい」と主張したのだ。
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光海君(クァンヘグン)が庶民のために行なった大同法とは何か

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廃位となった光海君(クァンヘグン)の最期の地は済州島だった!

〔物語〕もし光海君(クァンヘグン)が現代に甦ったら何を語る?



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