1762年、英祖(ヨンジョ)は息子の思悼(サド)世子を米びつに閉じ込めて餓死させた。なぜ、親子の確執が生まれたのか。当時、王宮の中でも派閥争いが激化していた。その中で、思悼世子を陥れるために彼の行状を英祖に悪く報告していたのが、老論(ノロン)派の連中だった。その中心にいたのが、英祖の継妃だった貞純(チョンスン)王后である。
孫が祖母を罰することはできない
1776年、正祖(チョンジョ)は24歳で即位した。
王になった彼はすぐに何をしたのか。策略で父の思悼世子を餓死するまで追い詰めた連中を絶対に許さなかったのだ。
手始めに、母の叔父を死罪にして、父の妹から王族の身分を剥奪した。
正祖は次々に老論派の策士たちを厳罰に処したが、どうしても罪を問えなかったのが貞純王后だった。
彼女は英祖の二番目の正室で、思悼世子と折り合いが悪かった。その末に、思悼世子を窮地に追い詰める役割を演じたのだが、そのことを正祖もよく知っていた。
しかし、正祖からすれば、貞純王后は祖母に当たる女性だった。年齢は7歳しか違わないのだが、祖母は祖母である。儒教精神が社会の隅々まで浸透していた朝鮮王朝の世界で、どんな事情があろうとも、孫が祖母を罰することはできない。そんなことをすれば、当時の人間関係の根本であった「長幼の序」が崩れてしまう。
結局、正祖は貞純王后を罰しなかった。しかし、貞純王后は王宮の中でひっそりと暮らさざるをえなかった。(ページ2に続く)