チャングムは1人ではなく複数いたのか

 

韓国時代劇の金字塔となった『宮廷女官 チャングムの誓い』。このドラマが大人気になったおかげで、朝鮮王朝時代の医女だったチャングム(長今)は超有名人になった。彼女のことを知らない韓国の人は、おそらくいないだろう。

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果たしてどんな人間だったのか

確かに、チャングムはよく知られる歴史上の人物になったが、「実際にチャングムはどんな女性だったのか?」と聞かれても、答えられる人はほとんどいない。朝鮮王朝の正史である「朝鮮王朝実録」に出てくるチャングムの記述はほんの10カ所程度にすぎず、どんな人間かがわかる内容は皆無だからだ。
特に注目したいのは、「朝鮮王朝実録」の1515年3月22日の記述だ。そこには、「医女である長今の罪は大きい。産後に王妃の衣装を替えるべきなのに、それをしないでおくとはどういうことなのか」と書かれてある。
先の記述で「王妃」と記されているのは、11代王・中宗(チュンジョン)の二番目の正室だった章敬(チャンギョン)王后である。
彼女は中宗の長男(後の12代王・仁宗〔インジョン〕)を出産した直後に亡くなっている。その際に、チャングムは不手際の責任を問われているのだ。
朝鮮王朝で随一の名医だった許浚(ホ・ジュン)でさえ、14代王・宣祖(ソンジョ)が1608年に世を去ったときに、王の主治医として処罰されている。当時、王や王妃が亡くなると、たとえ主治医にミスがなくとも形のうえで罪人にされたのだ。




当然ながら、チャングムも罪を問われて何らかの処罰を受けた可能性が高い。
そんな彼女が、引き続き王族の診察を担当できたのだろうか。
しかし、「朝鮮王朝実録」によると、その後もチャングムは医女として王族の診察をしていて、しばしば褒美を得ている。
さらには、「長今」の名前に「大」がついて、「大長今(テジャングム)」と尊称されるようになった。
この「大長今」というのが、ドラマ『宮廷女官 チャングムの誓い』の韓国での原題となっていた。
チャングムの名前が「朝鮮王朝実録」で最後に出てくるのは、1544年10月29日である。それは、チャングムの名前が初めて「朝鮮王朝実録」に出てから29年目のことだった。これほど長きにわたってチャングムが「朝鮮王朝実録」に登場する。
平均寿命が短かった時代なのに、あまりに長すぎないだろうか。
そこで、次のような推察も成り立つ。チャングムというのは当時の医女の役職名であって複数の人物が存在したのではないか、と。
果たして、チャングムは1人だったのか。あるいは、何人もいたのか。このことを研究する歴史学者が出てくれば面白いのだが……。

構成=「朝鮮王朝オッテヨ」編集部

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