『不滅の恋人』が描いた王子の対決とは?

 

『不滅の恋人』には2人の王子が登場して激しく対立する。その王子の中で、イ・ガンは歴史的に首陽大君(スヤンデグン)のことであり、イ・フィは安平大君(アンピョンデグン)のことだ。史実で2人はどんな立場だったのだろうか。




武闘派と芸術派

朝鮮王朝最高の名君と称された4代王・世宗(セジョン)。その二男が首陽大君(スヤンデグン)で、三男が安平大君(アンピョンデグン)だ。
世宗の王位を継いだのは長男の文宗(ムンジョン)で、彼は1450年に即位した。
しかし、病弱であった。
1452年5月、文宗は自分の死期に気づき始めたが、まだ11歳の長男の行く末がとても心配だった。そこで、金宗瑞(キム・ジョンソ)や皇甫仁(ファンボ・イン)という重臣たちを呼びだし、一つの願いを託した。
文宗は重臣たちに言った。
「余の死後、幼い世子が王になれば、朝廷では大きな混乱が起きるだろう。お前たちで世子をしっかりと補佐し、守ってあげてくれ」
これがいわば遺言となった。
文宗は即位して2年あまりで世を去った。残された長男は6代王・端宗(タンジョン)として即位するが、その王位は決して安泰とはならなかった。




実際、11歳の端宗が王になることに、首陽大君や多くの高官たちから不満の声があがった。
しかし、文宗の側近たちはそうした声を力づくで抑えようとした。幼く力のない端宗はそうした争いをただ見ていることしかできなかった。
王宮の内部で対立が激しくなっていったが、さらに対立をあおったのが首陽大君だった。彼は文宗の側近だった金宗瑞や皇甫仁の失脚を画策するようになった。
一方、なんとしても端宗を守りたい金宗瑞や皇甫仁が頼りにしたのが安平大君だった。この安平大君は、首陽大君より1歳だけ年下だ。
この兄弟の性格は、まさに正反対。首陽大君は武芸を好む武闘派だが、安平大君は学問を好む芸術派だった。
金宗瑞や皇甫仁は、首陽大君を牽制する戦略の一つとして、安平大君に近づいた。安平大君も兄の首陽大君に批判的で、端宗の王位を守る決意を固めた。こうして王族内では、首陽大君派と安平大君派の二大勢力ができてしまった。
しかし、高名な学者や大臣たちを取りこんでいた安平大君に世論は味方していく。首陽大君はあせったが、側近である韓明澮(ハン・ミョンフェ)の見解は違った。




「今の混乱した情勢では世の中の評判を勝ち取るよりも、武力を集め、いつか来る戦いの日にそなえるべきです」
策士の韓明澮の助言を受けた首陽大君は、積極的に武臣たちを傘下に引き入れることにした。
しかし、首陽大君が武力を強化するのは、多くの危険をはらんでいた。なぜなら首陽大君の動向は常に警戒されていたため、一歩間違えれば反乱の疑いをかけられてしまうからだ。
そこで韓明澮が考えたのが、弓術大会を開くことだった。そこに集まった武臣たちと接触して、飲食をふるまって自然と仲良くなる計画を立てたのだ。
そうした計画のもと、首陽大君は何度も弓術大会を開いた。その甲斐もあって、首陽大君は朝鮮王朝の中でも屈強の武臣たちと親交を深めていった。
こうして首陽大君は戦力を整え、1453年にクーデターを起こして金宗瑞や皇甫仁を殺し、朝鮮王朝で最大の実力者になった。
一方の安平大君は首陽大君によって死罪にされてしまった。
王位をめぐる骨肉の争い……首陽大君が勝って世祖(セジョ)として即位し、弟の安平大君は敗れて命を奪われた。

構成=「朝鮮王朝オッテヨ」編集部

チャングムは1人ではなく複数いたのか

粛宗(スクチョン)はなぜ仁顕王后を廃妃にしたのか

張緑水(チャン・ノクス)という悪女!



関連記事

ページ上部へ戻る