毒殺の憶測がつきまとう
孝明世子の成長にともなって豊壌・趙氏は安東・金氏の勢力を上回った。もはや安東・金氏の没落はさけられなかったのだが、驚愕すべき悲劇が起こってしまった。孝明世子がわずか21歳で1830年に亡くなってしまったのである。
有力な後ろ楯を失った豊壌・趙氏は力が衰え、逆に安東・金氏が復活した。純祖の意図は息子の死によって失敗に終わったのだ。
以後は純元王后が世を去る1857年まで安東・金氏の天下が続いて政治が腐敗した。いわば、孝明世子の死は朝鮮王朝にとっても悲劇だったのである。
それにしても、21歳での早世というのはあまりに早すぎる。
「孝明世子は安東・金氏の勢力に毒殺されたのではないか」
そういう憶測がずっとつきまとっていた。
その可能性も確かにある。
孝明世子の死によって安東・金氏が復活した。純元王后が自分の息子の命を狙うというのは考えにくいが、一族の他の誰かが毒殺を狙ったということは十分にありうるだろう。それくらい、安東・金氏にとって孝明世子は最大の敵だったのである。(ページ3に続く)
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