光海君(クァンヘグン)は1575年に生まれていて、仁祖(インジョ)は1595年の生まれだ。年齢はちょうど20歳違う。親戚関係で言うと、光海君が伯父で、仁祖は甥になる。2人は共に国王であったが、その統治能力にはどのような違いがあったのか?
クーデターを主導した仁祖
光海君は、14代王・宣祖(ソンジョ)の息子であるが、仁祖は宣祖の孫にあたる。
立場で言うと、光海君は早くから世子(セジャ)に指名されて、国王になる資格を約束されていた。
しかし、仁祖は目立たない王族の1人で、生活にも苦労する身分だった。
それだけに、仁祖が歴史の表舞台に出ることはないと思われた。
ところが、1623年に仁祖はクーデターを主導して、光海君を王宮から追い出して廃位にした。
このようにクーデターを成功させるまでの仁祖は、すぐれた戦略家だった。光海君に恨みを持つ人たちを巧みに集め、しっかりした大義名分を用意し、王宮の護衛兵の中に内通者をたくさん作って、実に巧みにクーデターを成功に導いていった。
これほどの指導力と行動力を持った仁祖。
さぞかし、王になっても優れた統治能力を発揮すると思えたのだが、現実はまるで逆だったのである。
いったい何が問題だったのだろうか。(ページ2に続く)
廃位となった光海君(クァンヘグン)の最期の地は済州島だった!
仁祖(インジョ)は王子のときに綾陽君(ヌンヤングン)と呼ばれた!
仁祖の息子の孝宗(ヒョジョン)と孫の顕宗(ヒョンジョン)はどんな王だった?