燕山君は、9代王の成宗(ソンジョン)の長男として1476年に生まれた。彼は母の愛を知らず我がままに育った。実は、母の斉献(チェホン)王后は、自分以外の側室に目を向ける成宗に嫉妬して、宮中に呪いの言葉を持ちこんで追放されていたのである。
少年時代も最悪
自尊心があまりに強かった斉献王后は、やがて精神を病むようになった。さらには、罪を許そうと訪ねてきた成宗の顔をひっかいて傷つけてしまった。結局、廃妃になったあとに死罪となった。
成宗は、自分が追放したとはいえ、斉献王后との間に生まれた長男の燕山君を後継ぎに決めた。反対が多かったのは事実だが、王位継承者は長男が原則、という定めに従ったのだ。
こうして1494年に、燕山君は10代王となった。
後の世で燕山君の評価は最悪なので、彼にまつわる逸話もひどいものばかりである。
たとえば、一つは鹿、もう一つは恩師をめぐる話だ。
ある日、成宗は少年時代の燕山君を庭に呼んだ。そのとき、成宗がかわいがっていた鹿が、燕山君になついて手の甲や衣類をなめた。
しかし、燕山君は急になつかれたことに腹を立て、その鹿を思いっきり蹴飛ばした。成宗が大事に飼っていた鹿であるにもかかわらず……。
また、少年時代の燕山君の教育係を仰せつかった優秀な側近も悲惨な目にあった。彼は、将来の王に帝王学を授けたくてかなり厳しく指導したのだが、これを燕山君は根に持っていた。即位するとすぐに、その側近を処刑してしまった。
こうした例を見ても、燕山君が傲慢で執念深い人物であることがわかる。
燕山君は、学問が好きではなかったので、儒教的な教養主義の高級官僚たちが大嫌いだった。
そこに目を付けた奸臣は、「王の実務を記録する係の者たちが7代王の世祖(セジョ)大王を侮辱した文を書いています」と告げ口をした。
その言葉を真に受けた燕山君は、多くの罪なき人たちから官職を剥奪したうえで斬首の刑に処した。
生活も荒れる一方で、王朝の最高学府である成均館(ソンギュングァン)までも酒宴場にして、酒池肉林の宴を連日催した。
こんな王の下では庶民の反感も大きくなる。
人々は、いたるところにハングルで「王は女と酒しか頭にない最低な人物だ」「無能の暴君」というような張り紙を貼っていった。その話を聞いた燕山君は、庶民がハングルを使うことも禁止した。
王宮が混乱する中、さらに事態を悪化させる出来事が起こった。出世欲にかられた者が、宮中でタブーとされていた燕山君の母の追放劇をばらしたのだ。それまで、燕山君は何も知らされていなかったのに……。
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