高麗王朝は一夫多妻制だった。初代王の王建(ワン・ゴン)が30回も結婚した人だから、それも当然のことかもしれない。朝鮮王朝を建国した太祖は、もともと高麗王朝の武将だった。彼のように出世する人は、ほとんどが故郷の本宅に本妻がいて、都に第2夫人を持っていた。
骨肉の争い
太祖の場合は、最初の正妻が神懿(シヌィ)王后、出世して都に持ったのが若くて美人だったと言われている神徳(シンドク)王后である。ただし、神懿王后は1391年に亡くなっているので、朝鮮王朝の創設時の王妃は神徳王后だった。
神懿王后には息子が6人いて、神徳王后には2人の息子がいた。王になると、すぐに後継者を指名する必要がある。
王の後継者を世子(セジャ)と言うが、太祖の息子の中では五男の芳遠(バンウォン)が一番優秀で、誰もが芳遠が後継者にふさわしいと思っていた。
本人も自分が指名されると思っていたが、太祖が指名したのは八男の芳碩(バンソク)だ。そのとき、芳碩はまだ10歳で、芳遠は25歳だった。
誰もがビックリ仰天する指名だったが、太祖が寵愛する神徳王后に懇願されたのは間違いない。しかし、この指名が火種となり、神徳王后が亡くなった2年後の1398年、神懿王后と神徳王后の息子たちの間で骨肉の争いが起き、神徳王后の息子2人は殺されてしまう。その結果、芳遠が実権を握った。
ただし、自分が王になってしまうと目立ちすぎるので、二男の芳果(バングァ)を2代目の王に据えて、芳遠は後ろで糸を引いていた。
そして、2年だけ兄に王位に就いてもらい、1400年になって芳遠が即位して3代王の太宗(テジョン)になった。(ページ2に続く)