カテゴリー:王宮物語
-
イ・ソン(思悼世子〔サドセジャ〕)が父に出した反省文は逆効果になった!
1735年に生まれたイ・ソン。彼は世子(セジャ)として甘やかされて育ったのだが、10歳のときに早くも政治の表舞台に出て老論派の政治手法を厳しく批判した。老論派といえば当時の主流派閥。イ・ソンは大きな敵…詳細を見る -
イ・ソン(思悼世子〔サドセジャ〕)は夫婦仲が悪かった!
餓死したあとに思悼世子(サドセジャ)と呼ばれるようになったイ・ソン。彼の妻は、後に高官となった洪鳳漢(ホン・ボンハン)の娘であった恵慶宮(ヘギョングン)だった。イ・ソンと恵慶宮はどんな夫婦であったのか…詳細を見る -
「イ・ソン」こと思悼世子(サドセジャ)の悲しい最期!
朝鮮王朝の王家の中でイ・ソンといえば、思悼世子(サドセジャ)のことだ。史実においては、彼の悲劇的な最期があまりに有名だ。 謀反を告発された世子 イ・ソンは1735年に英祖(…詳細を見る -
燕山君の暴政はどれだけ酷かったのか
最悪の暴君として知られる10代王・燕山君(ヨンサングン)。彼は、父親の9代王・成宗(ソンジョン)の後を継いで王となったのだが、なぜ暴君と呼ばれるようになってしまったのだろうか。 執念深い燕山…詳細を見る -
イニョン王妃の復活と死!チャン・ヒビンに呪われたのか
19代王の粛宗(スクチョン)が熱望した跡取りの王子を側室の張禧嬪(チャン・ヒビン)が1688年に出産した。すると、翌年に粛宗は非情にもイニョン(仁顕)王妃を廃妃(ペビ)にしてしまった。空いた王妃の座に…詳細を見る -
イニョン王妃の悲劇!チャン・ヒビンを愛した粛宗(スクチョン)は何をした?
1681年、イニョン(仁顕)王妃は粛宗(スクチョン)の二番目の正室となった。彼女はあまりに人が良すぎた。というのは、粛宗の寵愛する張禧嬪(チャン・ヒビン)が王宮から追い出されたときに、同情を示したので…詳細を見る -
数々の悲劇に耐えた貞明(チョンミョン)公主!
貞明(チョンミョン)公主は、韓国時代劇『華政(ファジョン)』に主人公として登場しているが、実際にもドラマのような波瀾万丈の日々を過ごした。数々の悲劇に耐えた女性だったのである。 [caption…詳細を見る -
貞明(チョンミョン)公主の危機!仁祖に執拗にいじめられた
1623年に仁祖(インジョ)はクーデターを起こして光海君(クァンヘグン)を追放して自分が即位した。それによって、幽閉されていた仁穆(インモク)王后と貞明(チョンミョン)公主も解放された。 [ca…詳細を見る -
利発な貞明(チョンミョン)公主は才能豊かな女性だった
貞明公主の父は、14代王・宣祖(ソンジョ)である。彼の最初の正室・懿仁(ウィイン)王后は1600年に亡くなり、仁穆(インモク)王后を継妃として迎えた。その仁穆王后が1603年に産んだのが貞明公主だ。 …詳細を見る -
仁祖の息子の孝宗(ヒョジョン)と孫の顕宗(ヒョンジョン)はどんな王だった?
1649年に即位した17代王の孝宗(ヒョジョン)は、仁祖(インジョ)の二男である。彼は兄の昭顕(ソヒョン)世子(セジャ)と一緒に長く清の人質になっていた。1645年、兄は先に帰国した。この時点で王の後…詳細を見る