タグ:朝鮮王朝
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文定(ムンジョン)王后が継母だったことが仁宗(インジョン)の悲劇!
朝鮮王朝は儒教を国教にしていたが、儒教の最高の徳目と言われたのが「仁」である。この漢字を諡(おくりな/死後の尊号)につけているのが12代王の仁宗(インジョン)だ。「彼ほど親孝行な王族はいない」と言われ…詳細を見る -
イ・ソンゲ(李成桂)とイ・バンウォン(李芳遠)!朝鮮王朝を作った親子の確執
1392年に朝鮮王朝を建国した李成桂(イ・ソンゲ)。彼の五男が李芳遠(イ・バンウォン)である。李成桂には8人の息子がいたが、兄弟の中でこの李芳遠の実力が抜きんでていた。 [caption id=…詳細を見る -
イ・バンウォン(李芳遠)とチョン・ドジョン(鄭道伝)をめぐる悲劇!
1392年に創設された朝鮮王朝の初代王は李成桂(イ・ソンゲ)だが、建国に尽力した最大の功労者は、李成桂の五男の李芳遠(イ・バンウォン)と儒学者の鄭道伝(チョン・ドジョン)であった。2人はやがて敵対する…詳細を見る -
朝鮮王朝の女官たちの知られざる世界!
王宮に入った女官が尚宮(サングン/正五品の品階を持つ上位の女官)になるまでには長い年月を要した。その間に、失態をおかさずひたすら堪えなければならない。それだけに、労多くして尚宮にのぼりつめたあかつきに…詳細を見る -
粛宗(スクチョン)の母が張禧嬪(チャン・ヒビン)を王宮から追い出した!
1680年、張禧嬪(チャン・ヒビン)が女官として宮中に入ってくると、その美貌がたちまち評判となって粛宗の目にとまった。そのとき、粛宗が19歳で、張禧嬪が21歳になっていた。 我が子の将来のた…詳細を見る -
光海君(クァンヘグン)はなぜ兄の臨海君(イメグン)をさしおいて王になれたか?
臨海君(イメグン)も光海君(クァンヘグン)も、14代王・宣祖(ソンジョ)の息子である。母親は恭嬪(コンビン)・金氏(キムシ)で、宣祖の側室だった。つまり、2人は王妃から生まれた嫡子ではなかったのである…詳細を見る -
仁祖(インジョ)は王子のときに綾陽君(ヌンヤングン)と呼ばれた!
王の正室が産んだ王子は、名前に大君(テグン)が付くが、側室が産んだ王子の場合は、君(クン)だけが付くのである。それによって、綾陽君(ヌンヤングン)が側室から生まれた王子の系統であることがわかる。 …詳細を見る -
淑儀(スギ)や昭容(ソヨン)や貴人(キイン)は何?/側室の品階について
朝鮮王朝を描いた韓国時代劇を見ていると、さまざまな側室が出てくるが、彼女たちはみんな品階を持っていた。それが淑儀(スギ)や昭容(ソヨン)や貴人(キイン)なのである。具体的に、側室の品階を見てみよう。 …詳細を見る -
危篤になる前のイ・サン(正祖〔チョンジョ〕)は何を語ったか
1800年6月、正祖の体調が悪化した。それでも彼は、薬を調合する現場を自ら視察している。彼自身が薬について詳しかったこともあるが、おそらく毒殺されることを極度に警戒していたものと思われる。 …詳細を見る -
英祖(ヨンジョ)は思悼世子(サドセジャ)を米びつに閉じ込めるとき何を語ったか
1762年5月22日、思悼世子(サドセジャ)が住む東宮で働く羅景彦(ナ・ギョンオン)が「世子が謀反をたくらんでいます」と訴え出てきた。報告を受けた英祖(ヨンジョ)は驚愕し、思悼世子を呼びつけた。 …詳細を見る