◆1776年から1811年まで
〔1776年〕英祖(ヨン)(ジョ)が82歳で亡くなり、荘献の息子が22代王・正祖(チョン)(ジョ)として即位。彼が手始めに行なったのは、父の荘献を陥れた者たちへの厳罰だった。特に、父の妹や母の親族が処罰されている。それほど父は身内に敵を多く抱えていたのである。正祖が即位してからも敵対勢力は残っていて、暗殺団が王宮に侵入するという事件も起きている。そんな中でも、正祖は政治改革に意欲を見せ、身分の垣根を越えて学問に秀でた人材を抜擢。政治、経済、文化の各分野で多くの成果を達成している。
〔1780年〕正祖の側近として大きな権力を握っていた洪国栄(ホン)(グ)(ギョン)が、孝懿(ヒョ)(ウィ)王后を毒殺しようとしていたことが発覚。それまでの洪国栄の功績を考えて、正祖は彼を地方に追放するだけに留めた。
〔1794年〕亡き父を心から追慕する正祖は、父の陵墓がある水原で大規模な城郭の建設を始め、2年6カ月に周囲6キロのりっぱな城郭を完成させた。それが今は華城(ファ)(ソン)と呼ばれ、世界文化遺産に登録されている。
〔1800年〕正祖が48歳で亡くなる。10歳の息子が23代王・純祖(スン)(ジョ)として即位する。王族女性の最長老だった貞純(チョン)(スン)王后(英祖の二番目の正室)が摂政を行ない、敵対勢力が多いという理由でカトリック教徒の大弾圧を行なう。
〔1805年〕前年に摂政から身を引いていた貞純(チョン)(スン)王后が世を去る。以後は純祖の正室だった純元(ス)(ヌォン)王后の実家である安東(アン)(ドン)・金(キム)氏の一族が政治を独占する。王の外戚が政治を牛耳ることを勢道(セ)(ド)政治と言う。
〔1811年〕12月に政治腐敗に反抗して洪景来(ホン)(ギョル)(レ)が挙兵する。一時は朝鮮半島北部の広い地域を占拠する。
年表作成=康 熙奉(カン・ヒボン)