周囲の説得が続いた
願掛けの1つとはいえ、絶食することによって仁宗自身も衰弱していった。
そのときの様子が1544年11月18日付けの「朝鮮王朝実録」に詳しく記されている。その記録を見ると、仁宗の側近はこう嘆いている。
「世子(王の後継者で、ここでは仁宗のこと)は、お粥さえ絶対に召し上がりません。何度も『お食べください』と申し上げても聞き入れてくださらないので、(側近たちも)心配でなりません。昔から、亡くならない君主が果たしていらしたでしょうか。国家のことを憂慮されておられるのなら、無理やりでもお粥を召し上がってくださればよろしいのですが……」
側近たちの心配もよくわかる。
いくら親孝行とはいえ、次の時代を担う世子が絶食によって体調を崩せば、それこそ王家は最大の危機を迎えてしまう。
結局、大臣たちがこぞって説得して、ようやく仁宗はお粥を少し食べ始めた。
その直後に中宗は亡くなった。
仁宗は地に伏して慟哭し続けた。
しかし、いつまでも嘆いてばかりはいられない。自分が即位して、朝鮮王朝の最高権力者として国家を統治しなければならない。(ページ3に続く)