1506年、暴君・燕山君(ヨンサングン)の最悪な政治に危機感を持った高官たちがクーデターを起こした。彼らはまず、燕山君の異母弟にあたる晋城大君(チンソンデグン)を訪ねた。燕山君の後に王位に就いてもらうためである(中宗については、韓国時代劇の史実とフィクションの違いを解説した康熙奉〔カン・ヒボン〕著・実業之日本社発行の『いまの韓国時代劇を楽しむための朝鮮王朝の人物と歴史』で紹介しています)。
王になることを拒んだ異母弟
晋城大君はクーデター軍に説得されても、次の王位にあがることを拒んだ。
「兄に代わって王位に就いたら、非道な弟だと思われてしまう」
そういう理由で拒絶反応が強かった。
思わぬ状況になり、クーデター軍は頭を抱えた。
それでも、燕山君を追放しなければならない。クーデター軍は王宮を襲い、燕山君を王位から引きずりおろした。
クーデターを成功させた高官たちは、貞顕(チョンヒョン)王后を訪ねた。晋城大君の母である。母から晋城大君を説得してもらおうと思ったのだ。
しかし、貞顕王后もいい顔をしなかった。
「あんな子がどうやって重責を全うできるのか。もう少し成長するのを待ったほうがいいのではないか」
当時、晋城大君は18歳だった。
貞顕王后は晋城大君の若さを心配したのだ。
それでも高官たちは必死に貞顕王后に懇願し、ようやく許しを得た。
再び晋城大君の屋敷に向かった高官たち。しかし、晋城大君の拒絶は強硬だった。
「私には王という重責がどうしても務まらない」
そこまで言われてしまった。(ページ2に続く)
粛宗(スクチョン)は仁顕(イニョン)王后を王妃に戻すとき何を語ったか
粛宗(スクチョン)は張禧嬪(チャン・ヒビン)を死罪にするとき何を語ったか
英祖(ヨンジョ)は思悼世子(サドセジャ)を米びつに閉じ込めるとき何を語ったか