「イ・ソン」こと思悼世子(サドセジャ)の悲しい最期!

 

朝鮮王朝の王家の中でイ・ソンといえば、思悼世子(サドセジャ)のことだ。史実においては、彼の悲劇的な最期があまりに有名だ。





謀反を告発された世子

イ・ソンは1735年に英祖(ヨンジョ)の二男として生まれた。英祖の長男は幼いときに亡くなっていたので、イ・ソンが世子となった。
イ・ソンはとても賢い子供であったが、10歳のときに老論派の政治手法を批判してしまった。当時の老論派は英祖を支える主流派閥で、イ・ソンは早くも敵を多く作ってしまったのだ。
イ・ソンは10代の半ばから政治の一部を仕切るようになったが、老論派の重臣たちが何かと抵抗した。
彼らは、イ・ソンの悪評を英祖の耳に入れた。
確かに、イ・ソンにも素行が悪い面があった。酒乱だったし、家臣に暴力をふるうことも多かった。
英祖はイ・ソンを呼んで叱責した。やがて、老論派によってイ・ソンの悪評を吹聴されていた英祖は、イ・ソンに強い不信感を持った。
王宮に激震が走ったのは、1762年5月22日だった。




イ・ソンが住む東宮の下級官僚が「世子が謀反をたくらんでいます」と告発してきたのである。
謀反は王朝の一大事。その首謀者がイ・ソンだという。
驚愕した英祖は、王宮内に非常事態を宣言した。
反乱の首謀者として告発されていることを知ったイ・ソンは、あわてて英祖のもとにやってきた。
イ・ソンは英祖の寝殿に入ってきて前庭で平伏した。
しかし、英祖は会わなかった。怒りを必死に抑えようとしていたのだ。しかし、ついに感情が爆発した。
英祖はイ・ソンに罵声を浴びせた。
「お前はなぜ側室を殺したり、王宮を抜け出して遊び歩いているのか」
英祖が指摘したことは事実だった。
それだけに、イ・ソンは申し開きができなかった。あとはただ地面に伏してうなだれているしかなかった。




そんな出来事があった後も、英祖のもとにはイ・ソンの悪評が伝わってきた。その中には老論派が意図的に流布させたものも多かった。
しかし、英祖はすべて真に受けてしまった。
ついにイ・ソンを呼び出して、重大な王命を下した。
それは、イ・ソンに「自害せよ!」というものだった。
(ページ2に続く)

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