わがまま放題の粛宗(スクチョン)/朝鮮王朝人物実録5

[粛宗(スクチョン)の人物データ]

粛宗の生没年/1661~1720年
粛宗の在位期間/1674~1720年
粛宗の父/18代王・顕宗(ヒョンジョン)
粛宗の母/明聖(ミョンソン)王后

写真=植村誠



どんな政治を行なったのか

粛宗の親は、18代王・顕宗(ヒョンジョン)と明聖(ミョンソン)王后である。父親の顕宗が1674年に亡くなると、粛宗が後を継いで19代王となった。当時は、派閥闘争の激しかった時代で、それに巻き込まれる危険性を感じていた粛宗は、あまり深入りしなかった。そうした党争が起こった原因は、粛宗が13歳で即位したことで、王の補佐役を自認する者たちが、主導権争いを起こしたからである。成人した粛宗は、王権の強化を行ない、敵対する党派を牽制しながら独自の政治哲学を実現させていった。
さらに、粛宗は農業地の整備など生活水準を向上させるという功績を残している。朝鮮王朝時代は儒教が国教だったため、商人は軽んじられていて、商売も低く見られていた。粛宗は「商業が発展しなければ、人々の生活が良くならない」と思い、本格的な貨幣鋳造事業を行なった。
そうした功績を残した粛宗だが、一方で彼は女性に関するトラブルが多かった。その女性の中には、「朝鮮王朝3大悪女」の1人として知られる張禧嬪(チャン・ヒビン)がいる。




張禧嬪は、もともと宮中に女官でやってきた女性で、かなりの美貌の持ち主だった。粛宗は彼女に一目惚れするが、母親の明聖王后は、「いつかわざわいを起こすに違いない」と決めつけて、張禧嬪を王宮から追い出してしまう。その後、1683年に明聖王后が亡くなると、粛宗の正妻である仁顕(イニョン)王后が張禧嬪を王宮へ呼び戻した。
王宮に戻ってくることができた張禧嬪は、恩人である仁顕王后にお礼を言わずにわがままに振る舞い始めた。その後、さらに仁顕王后の立場が不利になることが起きる。1688年に、張禧嬪が粛宗の息子を産んだのである。
自分の後継ぎとなる息子がいないことに悩んでいた粛宗は、それを大変喜び、さっそくその息子を元子(ウォンジャ/世子の筆頭候補)に指名しようとした。しかし、そのことに対して、高官たちは反対した。なぜなら、仁顕王后はまだ若くて子供を産む可能性があったからだ。それでも粛宗は意見を変えなかった。
王の息子を産んだことで有利な立場になった張禧嬪。粛宗は、彼女にしつこく頼まれて仁顕王后を廃妃にしてしまう。もちろん、このときも大きな反対が起こったが、粛宗はそれをすべて無視した。
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