粛宗(スクチョン)は張禧嬪(チャン・ヒビン)の息子を後継者にしたかった!

 

1688年に張禧嬪(チャン・ヒビン)は粛宗(スクチョン)の初めての息子を産んだ。この王子を、粛宗は早く後継者に決めたいと考えた。そのためには、生まれた息子を元子(ウォンジャ)に指名する必要があった。王の後継者は正式には世子(セジャ)だが、その世子の筆頭候補が元子なのだ。

 

粛宗が心配していたことは?

1689年1月10日、粛宗は大臣たちを集めて、生後まだ2カ月半の息子を元子に指名する手続きに入ることを宣言した。
もし王子が正室の仁顕(イニョン)王后から生まれていれば、何の問題もなかった。しかし、王子は側室の張禧嬪が産んだのである。大臣たちからすれば、「正室の仁顕王后は若さの盛りで、これから子供を産む可能性が高いのに、なぜ側室が産んだ王子を元子にしなければならないのか」という気持ちが強かった。
しかし、粛宗は強硬だった。




「王の後継者を決めることができないから、民心が落ちつかないのだ。今日こそはっきりしたいと思っている。もし傍観したり異議をとなえたりする者がいれば、官職を返上して出ていってくれ」
粛宗はここまで言い切っている。よほど強い決意を胸に秘めていたのだ。しかし、大臣たちも臆していない。彼らは次々に「王妃はまだ若いので、元子の決定を急ぐべきではありません」という持論を披露した。
これに対して粛宗は強く反論した。
「古来からの教訓でも、『一番の不孝は後継ぎがいないことだ』と言うではないか。余はもうすぐ30歳なのだ。後継ぎがいないので日夜おそろしいほどに心配していたのだが、ようやく王子をさずかったのだ」(ページ2に続く)



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