朝鮮王朝の無念の五大国王

 

朝鮮王朝には27人の国王がいたが、4代王・世宗(セジョン)や22代王・正祖(チョンジョ)のように尊敬される名君もいれば、その逆で、業績を残せなかった国王もいた。その中から5人の国王を選んでみた。




政治を仕切る機会を持てなかった3人

◆文宗(ムンジョン)
〔1414~1452年〕
5代王。在位は1450~1452年。4代王・世宗(セジョン)の長男として、父が病床のときは政治を代行したこともある。学者顔負けの博識で人格も優れていた。しかし、王位に上がってからは体調を崩し、わずか2年間の治世だった。結果的に、在位が短すぎて業績を残せなかった。

◆中宗(チュンジョン)
〔1488年~1544年〕
11代王。在位は1506~1544年。10代王・燕山君(ヨンサングン)の異母弟で、晋城大君(チンソンデグン)という名でも知られる。燕山君を追放するクーデターで王位に上がったが、クーデターを主導した重臣たちに頭が上がらず、王政の独自性を発揮できなかった。

◆明宗(ミョンジョン)
〔1534~1567年〕
13代王。在位は1545~1567年。慶源(キョンウォン)大君という名でも知られる。父は11代王・中宗(チュンジョン)で、母は文定(ムンジョン)王后。




11歳で即位したために、母が政治を代行した。その母が恐怖政治で宮中を取り仕切り、悪政を続けた。明宗も心痛が多かった。母が1565年に絶命すると、その2年後に明宗も急死してしまった。
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