1592年というと、朝鮮王朝が創設されてから200周年になる。この記念すべき年に朝鮮王朝は存亡の危機を迎えた。豊臣軍の朝鮮出兵があったからだ。そのときの王は14代王の宣祖(ソンジョ)だった。
李舜臣の活躍
実は、朝鮮出兵がある2年前に、朝鮮王朝側は、日本の動きが不穏だということで情勢を探らせるために使節を京都に送っている。使節は豊臣秀吉とも会った。
その使節の正使は黄允吉(ファン・ユンギル)で、副使が金誠一(キム・ソンイル)である。帰ってきた2人はまるで正反対のことを報告する。
黄允吉は「いまにも日本が攻めてきそうです。早く国防に力を入れたほうがいいでしょう」と言い、金誠一は「大丈夫です。日本は攻めてきません」と断言した。
正使のほうが身分が上だから、正使の報告が通りそうなものだが、当時の朝鮮王朝は派閥闘争が激しくて、実は副使側の派閥のほうが強かったので、結局は金誠一の意見が採用された。
日本が攻めてこないと信じて国防をおろそかにしたときに、豊臣軍が攻めてきた。戦国時代を経て日本は兵が鍛えられているが、朝鮮王朝は太平が200年間も続いて平和ボケしていた。
これでは、豊臣軍の攻撃にひとたまりもない。朝鮮王朝は連戦連敗で、宣祖は都を捨てて北に逃げた。
ただし、豊臣軍の優位は長続きしなかった。明が救援軍を送ってきたり、各地に義勇軍ができて豊臣軍が苦しめられた。その中でも、戦局の最大の転換をもたらしたのが、武将の李舜臣(イ・スンシン)の存在だ。(ページ2に続く)