朝鮮王朝の年表3〔1494-1591年〕

 

暴君として悪政のかぎりを尽くした燕山君から朝鮮出兵の直前までの波乱の時代を時系列で振り返っていきます。

◆1494年から1544年まで

〔1494年〕成宗の後を継いで燕山君(ヨン)(サン)(グン)が10代王となる。
〔1498年〕道義と名分を重んじる士林派の高官たちを燕山君が粛清。「戊午士禍(ム)(オ)(サ)(ファ)」と呼ばれている(「士禍」というのは、派閥闘争の末に官僚・学者の多くが犠牲になる事件を指している)。
〔1504年〕燕山君の母(尹氏)の死罪に関わった人たちが根こそぎ虐殺される。すでに死去している人は、墓をあばかれて首をはねられる。この出来事は「甲子士禍(カプ)(チャ)(サ)(ファ)」と呼ばれている。




〔1506年〕朴元宗(パク)(ウォン)(ジョン)、成希顔(ソン)(ヒ)(アン)、柳順汀(ユ)(スン)(ジョン)が中心になってクーデターを起こし、燕山君を王宮から追放する。その結果、燕山君の異母弟にあたる晋城大君(チン)(ソン)(デ)(グン)が11代王・中宗(チュン)(ジョン)となる。このクーデターは「中宗反正(チュン)(ジョン)(バン)(ジョン)」と呼ばれている。「反正」の本来の意味は「乱れを正すこと」だが、歴史的には、「悪い王を追放して新しい王が即位すること」を意味している。
〔1519年〕儒教的な賢人政治を主導した趙光祖(チョ)(グァン)(ジョ)が死罪となる。もともと、中宗は「中宗反正」を成功させた高官たちに頭が上がらず、王としての独自色を出すために高潔な趙光祖に期待した。しかし、その高邁な理念をやがて中宗は敬遠するようになり、最終的に趙光祖が失脚。彼とともに多くの同志が死罪か失脚となる。この出来事は、「己卯士禍(キ)(ミョ)(サ)(ファ)」と呼ばれる。
〔1544年〕中宗が56歳で亡くなり、息子が12代王の仁宗(イン)(ジョン)となる。

朝鮮王朝の年表4〔1592-1689年〕

朝鮮王朝の年表1〔1392-1446年〕

朝鮮王朝の年表2〔1450-1485年〕




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