◆1545年から1591年まで
〔1545年〕仁宗が在位9カ月で死去。継母の文定(ムン)(ジョン)王后(中宗の三番目の正室)が毒殺したという噂が流れた。この文定王后の息子が13代王・明宗(ミョン)(ジョン)として即位。文定王后は摂政を行ない、権勢をほしいままにした。
〔1565年〕政治を私物化して朝鮮王朝を混乱させた文定王后が世を去る。
〔1567年〕明宗が亡くなり、14代王・宣祖(ソン)(ジョ)が15歳で即位する。
〔1570年〕儒教の大学者の李滉(イ)(ファン)が死去。李退渓(イ)(テ)(ゲ)という号でも知られる。現在、韓国の千ウォン紙幣の肖像画になっている。
〔1575年〕朝鮮王朝の政治を動かしていた高官の間で激しい意見対立があり、東人派と西人派に分裂。以後、朝鮮王朝は激しい「党争」の時代に突入する。
〔1591年〕日本に派遣されていた使節が帰国し、日本の情勢を宣祖に報告。正使の黄允吉(ファン)(ユン)(ギル)は「日本が攻めてくる可能性が高い」と言ったのに対し、副使の金誠一(キム)(ソン)(イル)は「攻めてこない」と強調。当時の政権は派閥争いの中で東人派が優勢であり、その東人派に所属していた金誠一の意見が通ってしまう。その結果、朝鮮王朝は国防の強化を見送る。
年表作成=康 熙奉(カン・ヒボン)