正祖が即位
英祖の堪忍袋の緒が切れてしまった。英祖は「荘献が王位を継いだら朝鮮王朝は大変なことになる」と覚悟を決め、息子に対して「自害せよ」という命令を出した。
しかし、荘献は自決しなかった。英祖の怒りが収まらず、「自害しろと言ってもしないのなら、米びつを持ってまいれ」と臣下に命じ、王宮の中庭に運ばれてきた米びつに荘献を閉じ込めた。なんともむごいことである。
食べ物が与えられなかった荘献。8日目に米びつを開けてみたら餓死していた。いつ死んだのかわからない。
息子が死んだあとになって英祖はようやく後悔して、荘献に思悼世子(サドセジャ)という諡(おくりな)を与える。それにしても、許すのが遅すぎた。
荘献の死によって、彼の息子が王位継承権を受け継ぐ。英祖から見れば孫になる。
1776年に英祖が亡くなり、孫が即位する。それが22代王の正祖(チョンジョ)である。
彼が即位したときに宣言した言葉が「朝鮮王朝実録」に詳しく出ている。ここで正祖は、父を死に至らしめた者たちを容赦しないと示唆する。
老論派の連中はみんな恐れおののいた。実際、荘献を陥れた重臣が何人も死罪になったり政権から排除された。さらには、荘献の妹の和緩(ファワン)王女まで厳しく処罰されている。荘献は身内にも敵が多かったのである。
実は、荘献を陥れた黒幕の1人が、英祖の二番目の正室だった貞純(チョンスン)王后だ。正祖もこのことがわかっていたが、貞純王后は正祖にとって、形の上では祖母にあたるのであった。(第9回に続く)
文=康 熙奉(カン ヒボン)