トンイと争った張禧嬪(チャン・ヒビン)の生涯(後編)

死罪となった張禧嬪

粛宗は「仁顕王后の見舞いに一度も来なかった」「神堂を建てて怪しげな者たちと祈祷を行なっていた」という理由を挙げて、彼女に死罪を言い渡した。
張禧嬪の死罪は、粛宗にとっても苦渋の決断だったことは間違いない。彼女は世子の母親であったため、多くの臣下が死罪に反対した。
それでも粛宗の気持ちは変わらなかった。




仁顕王后が亡くなってから2カ月後、張禧嬪の死罪は、賜死(ササ)によるものだった。賜死とは、王から毒を賜わって行なわれる方法だ。
そのとき、張禧嬪は「最後に息子に会いたい」と願い出た。粛宗は、その願いを受け入れて面会を許した。
その場にいた誰もが感動的な親子の再会を予想していただろう。しかし、張禧嬪は、何を思ったのか息子の下腹部(膀胱〔ぼうこう〕の上あたり)をおもいっきり握り出した。息子はあまりの痛さに失神してしまう。(ページ3に続く)

トンイと争った張禧嬪(チャン・ヒビン)の生涯(前編)

悪女と言えば張禧嬪(チャン・ヒビン)/朝鮮王朝悪女列伝5

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