王の正室が産んだ王子は、名前に大君(テグン)が付くが、側室が産んだ王子の場合は、君(クン)だけが付くのである。それによって、綾陽君(ヌンヤングン)が側室から生まれた王子の系統であることがわかる。
綾陽君の父は定遠君
まずは綾陽君の祖父の14代王・宣祖(ソンジョ)から話を始めよう。
宣祖には25人の子供がいた。
この人数は、歴代王の中で、29人の3代王・太宗(テジョン)、28人の9代王・成宗(ソンジョン)に次いで三番目に多い。
その25人の内訳は、正室から生まれたのが2人。側室から生まれたのが23人だった。男女を見ると、王子が14人で、王女が11人だった。
この中で、宣祖と側室の仁嬪(インビン)・金(キム)氏の間には4男5女がいたが、その三番目に生まれたのが、定遠君(チョンウォングン/1580~1619年)であった。
定遠君は、豊臣軍の朝鮮出兵(1592~1598年)のときに功績をあげた王子であった。
この定遠君には綾昌君(ヌンチャングン)という優秀な息子がいた。
「あんな青年が王になればいいのに……」
そんな声が起こるほど評判が良かった。(ページ2に続く)
仁祖(インジョ)の屈辱を象徴する三田渡(サムジョンド)の碑!