光海君(クァンヘグン)はなぜ兄の臨海君(イメグン)をさしおいて王になれたか?

 

臨海君(イメグン)も光海君(クァンヘグン)も、14代王・宣祖(ソンジョ)の息子である。母親は恭嬪(コンビン)・金氏(キムシ)で、宣祖の側室だった。つまり、2人は王妃から生まれた嫡子ではなかったのである。

長男と二男

宣祖の最初の王妃は懿仁(ウィイン)王后であったが、2人の間には子供ができなかった。それゆえ、宣祖としては側室が産んだ王子の中から後継ぎを決めなければならなかったのである。




宣祖の長男が臨海君であり、二男が光海君だ。朝鮮王朝は、原則的に長男が王家を継ぐことになっているので、本来であれば臨海君が世子(セジャ)の筆頭候補だった。しかし、結果的に世子になったのは光海君だ。
なぜ光海君のほうが評価が高かったのか。
決定的に差が付いたのは朝鮮出兵のときであった。
1592年に朝鮮出兵が始まると、宣祖の息子たちも国の危機を救うために、自ら積極的に戦地に行く覚悟を持っていた。
2人は朝鮮半島の地方に出かけて、そこで義兵を集めてゲリラ戦を展開する任務を帯びていたのである。(ページ2に続く)

光海君(クァンヘグン)への恨みを晴らした仁祖(インジョ)の復讐劇!

光海君(クァンヘグン)と仁祖(インジョ)の激闘1

光海君(クァンヘグン)の廃位!激動の朝鮮王朝史7



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