味方が増えていった
反乱を起こす機会をうかがっていた1811年、朝鮮半島はまれにみる大凶作となり、庶民は餓えに苦しみ、それでも重税を課す朝廷に恨みを抱いた。
この状況を好機と捉えた洪景来は、各地に檄文を張り出し、12月18日に反乱を起こした。その檄文は次のような内容である。
「西北地方は昔から産業が盛んで優秀な人物も多く輩出してきた。しかし、朝廷は私たちを正しく登用せず蔑視した。差別には我慢がならない。今、朝廷では国王が幼いとの理由で外戚勢力が暗躍して政治を危うくさせており、庶民の生活は悪化の一途をたどっている。今こそ立ち上がり、王権を脅かす奸臣どもを倒そう」
この檄文を読んだ反政府の人間は我先にと反乱軍に加わっていった。そこで、洪景来は自らを平西大元帥と称し、10日ほどで7つの城を占領した。
当初、洪景来軍をあなどっていた政府軍も、本気になって反撃に転じた。やがて政府軍が優勢となり、反乱軍は奪った城の1つである定州城(チョンジュソン)に逃げ込んで籠城した。
もはや政府軍の勝利は絶対だと思われていた。しかし、政府軍が反乱軍を平定するとの名目のもとで、何の関係もない人まで殺すような蛮行を重ねたために、洪景来に反感を抱いていた人たちも気持ちが変わっていった。その結果、多くの人たちが洪景来に味方し、中には定州城に入る人までいた。
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