泣きながら懇願したが……
イ・ソンは恐怖で真っ青になった。
ひたすら地面に額をこすりつけて英祖に詫びた。
しかし、英祖の怒りはすさまじかった。刀をふりかざして息子に自決を迫ったのだ。
それでも、イ・ソンは自決しなかった。ただ泣き崩れるばかりだった。
同時に、イ・ソンの側近たちは必死になって世子を守ろうとした。
その行動は英祖をよけいに怒らせた。英祖はイ・ソンの側近をみんな追い出した。
こうなると、イ・ソンは1人で英祖の怒りを解かなければならなかった。
彼は地面に額をこすりつけながら懇願した。
「過ちを改めて今後は正しく生きますので、どうか許してください」
ここまで息子に言われても、英祖の決心は揺るがなかった。英祖は周囲の制止も聞かず、庭に米びつをもってこさせた。
「お願いです。命だけは助けてください」
イ・ソンは必死に哀願したが、英祖は無情にも息子を米びつに閉じ込めた。
そして、英祖は恐ろしい形相で米びつをにらみ、周囲の者に「絶対に米びつを開けてはならない」と厳命して去っていった。
米びつからは嗚咽(おえつ)がもれていた。
多くの臣下が米びつを開けたいと願ったが、王の厳命だけに、それは絶対にできなかった。
夜があけても、英祖にはイ・ソンを許す気持ちがなかった。それが証拠に、英祖はイ・ソンの取り巻きを処刑してしまった。
さらには、イ・ソンを補佐していた官僚のほとんどを罷免した。これはイ・ソンが世子に復帰することが絶対にないことを明確に示したものだった。
結局、世子が米びつの中で絶命していることがわかったのは、閉じ込められて8日目のことだった。
息子が亡くなったという知らせを受けた英祖は、その時点になってようやく事の重大さを受け止めた。
「どうして30年近い父と子の恩義を感じないでいられるだろうか」
こう語った英祖は、イ・ソンの名誉を回復して、諡(おくりな/死後に贈る尊称)として「思悼世子(サドセジャ)」を贈った。
これは「世子を思い、その死を悼(いた)む」という意味だ。
これほど立派な諡を贈るくらいなら、命を助けてあげたほうが良かったのだが……。
「激昂して米びつに閉じ込めたとしても、早めに解放してあげるべきだった」
英祖は年を経る度に、その気持ちを強く持ったことだろう。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
康 熙奉(カン ヒボン)
1954年東京生まれ。在日韓国人二世。韓国の歴史・文化と、韓流および日韓関係を描いた著作が多い。特に、朝鮮王朝の読み物シリーズはベストセラーとなった。主な著書は、『知れば知るほど面白い朝鮮王朝の歴史と人物』『朝鮮王朝の歴史はなぜこんなに面白いのか』『日本のコリアをゆく』『徳川幕府はなぜ朝鮮王朝と蜜月を築けたのか』『悪女たちの朝鮮王朝』『宿命の日韓二千年史』『韓流スターと兵役』など。最新刊は『いまの韓国時代劇を楽しむための朝鮮王朝の人物と歴史』。
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