仁粋大妃(インステビ)とはどういう女性だったのか

 

仁粋(インス)大妃(テビ)は、7代王・世祖(セジョ)の長男だった懿敬(ウィギョン)の妻でした。ここでは実家の姓である韓氏(ハンシ)と呼びましょう。懿敬は19歳で突然亡くなり、韓氏は20歳で息子が2人に娘が1人いる若い後家になってしまったのです。





王の母となる

夫に先立たれた韓氏は子供たちをとても厳しく育てます。それは舅と姑であった世祖と貞熹(チョンヒ)王后が驚くくらいの厳しさでした。
世祖が亡くなり、その二男が8代王・睿宗(イェジョン)になりますが、彼もまた19歳で亡くなってしまいます。本来なら、睿宗の息子たちが王位を継ぐはずなのですが、先に亡くなっている懿敬の息子のほうに王位が戻っていきます。その際に強い影響力を発揮したのが貞熹王后でした。
彼女は、夫の世祖が王位を狙ったクーデターの決起を迷っていたとき、ハッパをかけて送り出すくらい強気な妻で、自分でも政治力を発揮しようという野心がありました。そんな彼女が頼りにしたのが、亡き夫の側近だった韓明澮(ハン・ミョンフェ)です。
韓明會は策士として世祖のクーデターを成功に導いた人物です。その功績で大出世していて、娘を王族に嫁がせています。実は、韓氏の二男の嫁は、韓明澮の娘でした。
睿宗が亡くなったあと、貞熹王后と韓明澮の2人は、自分たちにとって誰が王になるのが一番良いのか策略をめぐらせます。




答えはわかりきっています。それは、貞熹王后の孫であり、韓明澮の娘の夫であった男子(韓氏の二男)です。彼が9代王・成宗(ソンジョン)として即位しました。それにつれて、韓氏は王の母になったわけですから、ここで名実ともに仁粋大妃となりました。
成宗はまだ10歳だったので、垂簾聴政(すいれんちょうせい)が必要でした。これは、幼い王の背後に御簾(みす)をたらし、その奥から摂政の人が重要な政治的決定をするというものです。
この垂簾聴政を朝鮮王朝で初めて行なったのが貞熹王后です。
ただし、貞熹王后は学がなくて文字が読めませんでした。そこで指南役になったのが仁粋大妃です。
彼女は漢字が読めるし、中国の古典に精通して学問を積んでいました。当時の朝鮮王朝には女性に学問をさせる風潮はなかったのですが、仁粋大妃は別格でした。
なお、成宗は垂簾聴政を15歳くらいまで受けて一人前になります。そこから親政を行なうことになりますが、王の母として仁粋大妃の影響力は絶大なものでした。




実は、朝鮮王朝は儒教を崇拝して仏教を迫害する政策を続けていましたが、意外と王族の女性は仏教を信仰することが多かったのです。
仁粋大妃もとても熱心な仏教徒でした。
しかし、成宗の側近たちは、さらに仏教を迫害する政策を推し進めようとしました。それに大反対したのが仁粋大妃でした。“まかりならん”と自分の息子に働きかけます。結局、官僚たちに強権を発動して勝利を収めました。
(ページ2に続く)

〔仁粋(インス)大妃の命を縮めたのが孫の燕山君(ヨンサングン)だった〕

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