中宗(チュンジョン)は王としてどんな人生を歩んだのか?

悪妻だった文定王后

◆中宗の二番目の正妻は章敬(チャンギョン)王后だが、中宗の長男を1515年に出産した直後に亡くなった。ちなみに、この出産のときに貢献したのが長今(チャングム)である。
◆政治的に高官たちに頭が上がらなかった中宗は、趙光祖(チョ・グァンジョ)という儒学に優れた人物を頼り、自分なりの王道政治を築こうとした。しかし、あまりにも趙光祖の理想が高すぎて、中宗にはついていけなかった。その末に、中宗は趙光祖を死罪にせざるを得なかった。
◆中宗は三番目の正妻として文定(ムンジョン)王后を迎えたが、彼女が中宗に代わって裏で権力を持つようになった。しまいには、文定王后は自分が産んだ息子を王にするために、中宗の長男をしきりに排除する動きを見せた。その際に、手先になったのが「朝鮮王朝三大悪女」の1人である鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)だ。
◆中宗は国王として毅然とした態度を取れず、文定王后の悪行を許してしまった。そんな不本意な日々の中で、彼は1544年に世を去った。




◆長男が仁宗(インジョン)として即位したのだが、わずか8カ月で命を落としている。これは、文定王后が自分の産んだ息子を王にするために毒殺したのではないか、と言われている。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

中宗(チュンジョン)の挫折!理想的な政治ができなかった国王

中宗(チュンジョン)と燕山君(ヨンサングン)の異母兄弟同士の確執!

中宗(チュンジョン)はなぜ文定(ムンジョン)王后の悪行を止めなかった?

朝鮮王朝の中宗(チュンジョン)はどんな国王だったのか

『七日の王妃』の端敬(タンギョン)王后はどんな女性だったのか




固定ページ:
1

2

関連記事

ページ上部へ戻る