光海君(クァンヘグン)の「やむにやまれぬ人生」!

 

油断の末の廃位

1623年3月12日の明け方だった。
クーデター軍が王宮に侵入した。
このとき、王を守るための護衛兵たちはほとんど反撃しなかった。すでに、内通していたのである。
このあたりが光海君の不覚だった。
彼はあまりに油断しすぎていたのだ。
光海君は逃亡するが、つかまって流罪となった。クーデターを主導した仁祖(インジョ)は、光海君の命までは奪わなかった。
やがて、光海君は都から一番遠い済州島(チェジュド)に流された。
「なぜ、こんなさいはての島まで流されなければならないのか」
大いに嘆いたが、後悔は先に立たなかった。




1641年、光海君は失意の中で絶命した。しかし、王宮を追放されてから18年も生き延びた。
10代王の燕山君(ヨンサングン)は、同じく廃位になって島流しにあったが、わずか2カ月ほどで世を去っている。
同じく王宮から追放された身でも、光海君のほうが非常にしぶとかった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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