中宗(チュンジョン)が端敬(タンギョン)王后を離縁した理由は?

会えなかった二人

端敬王后は中宗の嘆きを噂で知った。
端敬王后は、家の裏の岩山に、かつて自分が身につけていた赤いチマ(スカート)を干した。
それは、元気に暮らしていることを中宗に知らせるためだった。
この逸話は「赤いチマ岩の伝説」と呼ばれ、韓国でも夫婦愛をあらわす際によく使われている。
中宗が端敬王后を離縁したのは1506年で、それから38年後の1544年に中宗は危篤に陥った。




このとき、端敬王后は中宗を見舞おうとした。実際、王宮の正門まで駆けつけている。しかし、面会は許されなかった。
中宗は1544年に世を去り、その13年後に端敬王后も亡くなった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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