◆1637年から1689年まで
〔1637年〕ついに朝鮮王朝は清に屈伏。仁祖は清の皇帝の前でひざまずいて謝罪。長男の昭顕(ソ)(ヒョン)を初めとする仁祖の息子たちが清の人質となる。
〔1641年〕済州島(チェ)(ジュ)(ド)に配流されていた光海君が66歳で生涯を終える。光海君を王宮から追放した仁祖の一派によって、彼は徹底的に「暴君」に仕立てあげられたが、現代の歴史研究では「暴君」というより政治的には「名君」という評価も起こっている。大同法(現物で納めていた税を米穀に換算して納めるようにした法律のことで、庶民は減税となり、大地主は税が増えた)の実施、巧みな外交戦術が高く評価されている。
〔1645年〕長い人質生活を終えて昭顕が故国に戻ってきたが、外国にかぶれたという理由で仁祖に冷遇される。しかも、昭顕は帰国後わずか2カ月で死去。仁祖に毒殺されたのではないかという噂が絶えなかった。
〔1649年〕仁祖が54歳で死去。次男が17代王・孝宗(ヒョ)(ジョン)として即位。彼は父の怨みを晴らすべく、清への復讐を狙い続けたが、財政事情によって希望をかなえることができなかった。
〔1659年〕孝宗が世を去り、息子が18代王・顕宗(ヒョン)(ジョン)として即位。ただし、孝宗の継母の服喪期間が問題となって激しい「党争」が起こる。
〔1674年〕顕宗が世を去り、息子が19代王・粛宗(スク)(チョン)として即位。商業の活性化など政治的な業績が多かった。
〔1689年〕粛宗が正妻の仁顕(イ)(ニョン)王后を廃妃にする。重臣たちが大反対したにもかかわらず、粛宗がそれを封じて独断的に実施。仁顕王后は実家に戻って謹慎する。代わって王妃になったのが張禧嬪(チャン)(ヒ)(ビン)である。彼女が産んだ粛宗の息子も世子となる。張禧嬪の栄華は絶頂となったが、それも長くは続かなかった。粛宗は側室の淑嬪(スク)(ビン)・崔(チェ)氏を寵愛するようになり、張禧嬪を遠ざける。
年表作成=康 熙奉(カン・ヒボン)