政権の内部では仁顕(イニョン)王后が属する西人派(ソインパ)と、張禧嬪(チャン・ヒビン)が属する南人派(ナミンパ)が派閥の主導権争いをしていた。最初は、仁顕王后の後ろ盾があったことで優位にたっていた西人派だが、張禧嬪が粛宗(スクチョン)の息子を産んだことで南人派が優位に立ち、西人派は衰退してしまった。
廃妃にされた仁顕王后
南人派が派閥の主導権を握ったことで、粛宗は嫉妬深いことを理由に仁顕王后を廃妃にしてしまう。
当然、高官たちからは大きな反対の声が出るが、粛宗は考えを変えなかった。
それにより、空席となった王妃の座を張禧嬪が狙っていた。1689年5月6日、粛宗の「1日でも早く新たな王妃を決めるべきではないか」という言葉に困惑する高官たちだが、その中の1人で、領議政(ヨンウィジョン/現在の総理大臣)である権大運(クォン・デウン)が「重大なことのため、品階が二品以上の者を集めたほうがよろしいかと思います」と意見を言った。
その言葉に突然怒り出した粛宗を見て、高官の柳命賢(ユ・ミョンヒョン)が、「大勢の臣下にわかるようにしたほうがいいのではないでしょうか」と述べた。それを聞いて、さすがの粛宗も折れて、二品以上の高官たちが集まった。
その場で粛宗は、権大運から「いつ王妃を決めたいのですか?」と問われて、「今日が吉日だ」と答えた。(ページ2に続く)