どのように亡くなったのか
1827年から23代王・純祖の代理で政治に関わり、多くの功績を残した孝明世子。しかし、それから3年経った1830年4月22日、彼は病にかかり、喀血(かっけつ/気管や呼吸器系から出血し、口から血を出すこと)して病床に伏せてしまう。すぐに症状に合う薬が調合されて孝明世子は安静を保つことができた。
しかし、その後に孝明世子の病状はかなり深刻になり、当時の朝鮮王朝で漢方薬に詳しい者たちが身分に関係なく集められ、医療チームに加わった。
さらには、朝鮮王朝で有名な思想家であり博学の大家であった丁若鏞(チョン・ヤギョン)まで孝明世子を診察している。丁若鏞は漢方薬の知識に優れていたからである。
つまりは当時の最高の医療が施されたのだが、その甲斐もなく、1830年5月6日に孝明世子は亡くなった。21歳の若さであった。
王になっていないので、歴史的に孝明世子はあまり知られていなかったのだが、『雲が描いた月明り』の主人公になったことで、その名前が今の韓国でも多くの人が知るようになった。
現代韓国で有名になったという意味で、孝明世子の短すぎる人生も大きな意味があったと言える。
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