5カ月で反抗は終わった
洪景来軍の戦いは、当初は社会の不条理に反抗する反乱であったが、次第に農民たちが加わり深刻な農民抗争となった。
このような状況が4カ月ほど続いたあと、定州城では食糧が不足し始めた。それでもみんなはお互いに励まし合って抗争を続けた。それほど、朝廷に対する不満が大きかったのである。
抗戦が長期化することに苛立った政府軍は、定州城の裏にトンネルを掘る作戦に出た。彼らは洪景来軍に知られないままトンネルを掘り進め、16日後には定州城の城壁まで到達した。
1812年4月、政府軍は大量の火薬を爆発させて城壁を打ち破り、一斉攻撃を開始した。空腹と疲労の限界にあった洪景来軍は太刀打ちできず、あえなく制圧された。洪景来も戦闘中に政府軍の銃撃を受けて戦死し、他の幹部たちも虐殺された。
洪景来の乱は、挙兵して5カ月で幕を下ろした。戦闘が終わったときに定州城には約3千人が生き残っていたが、女性と10歳以下の子どもだけが解放され、残りの約2千人は処刑されてしまった。
また、洪景来と同じ時期に反乱を計画した人たちも多かったが、首謀者はことごとく殺害された。
洪景来が乱を起こした理由は、西北出身者に対する不当な差別にあり、他の地方とは何の連携も結んでいなかった。しかし、洪景来が敗れたとはいえ、彼は次第に英雄視されるようになっていった。それほど、庶民は政府の政治に反感を持っていたのだ。
文=慎 虎俊(シン ホジュン)
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