『テバク』の歴史解説/粛宗(スクチョン)の後継者争い

テギルの出番はどう扱われるか

1717年というと、粛宗が世を去る3年前である。
この当時、粛宗はヨニングンの母である淑嬪・崔氏をかなり冷遇している。
というより、彼女を王宮から出して外に暮らすようにさせてから一度も会っていない。気持ちは完全に離れていた(なお、淑嬪・崔氏が世を去るのは、粛宗より2年前の1718年である)




粛宗に見限られていた淑嬪・崔氏の息子であるだけに、ヨニングンも後継者争いで有利とは言えなかった。
代わって有力となっていたのは、頭脳明晰で親孝行だった延齢君だった。粛宗はいずれ時期を見て世子を景宗から延齢君に変えようと思っていたはずだ。
過去に朝鮮王朝で、世子が変わった例はいくらでもあった。それだけに、景宗は相当な危機感を持っていただろう。同じく、ヨニングンをかついでいた老論派も必死の巻き返しに出ようとしていた。
そうした時期の緊迫感を『テバク』は巧みに描いていた。

文=康 熙奉(カン ヒボン)
提供=「ロコレ」http://syukakusha.com/

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