失意の晩年
韓明澮は世祖と婚姻で結ばれていた。それはつまり世祖以後の世代でも安定した位置を確保できるという意味になる。
自分の娘を8代王・睿宗(イェジョン/世祖の息子)に嫁がせた後、またもう1人の娘を9代王・成宗(ソンジョン/世祖の孫)に嫁がせ、2代にわたって王の岳父となった。優れた政治的能力で栄華を保てる立場を作ったのだ。
最高の権力を謳歌していた韓明澮は、1476年、余生を悠々自適に過ごすために、漢江(ハンガン)の川辺に鴨鴎亭(アックジョン)という家を建てた。しかし、これが原因で政治生命が終わるとは彼自身も想像すらできなかっただろう。
鴨鴎亭からの景色が絶景だという噂が中国大陸の明にまで伝わり、朝鮮王朝を訪ねる明の使節がよく遊びに来るようになった。
そんなある日、韓明澮は家が狭くて明の使節たちをもてなすのに不便だという理由で、王が使う日除けを使わせてほしいと願い出た。
それは、尊大な態度だった。
ときの王だった成宗は許さなかった。しかし、韓明澮は何度もそれを要求してきて、結局、成宗は激怒した。
問題はそれで収まらず、政府の各部署から韓明澮についての非難が続出した。そのたびに成宗は韓明澮をなるべく軽く処分しようとしたが、反発が続いて、最終的に韓明澮に隠居を申し渡した。
失意の中で韓明澮は1487年に世を去った。
文=「朝鮮王朝オッテヨ」編集部