首陽大君(スヤンデグン)は甥が国王になっていたのに、自分も王位に執着した。その執着の根底には、官僚主導の政治に対する反感もあった。果たして、首陽大君はなぜ強硬な政変劇を起こしたのか。
典型的な対立軸
朝鮮王朝が創設されたのは1392年だが、この段階から王族対高官のせめぎ合いがずっと続いていた。
王族としては、王家が中心となって政治を動かし、常に王家の力を誇示することを望んだ。しかし、官吏登用試験である科挙に合格して出世した高官たちは、優秀な専門家が政治を取り仕切るべきだという考え方を持っていて、自分たちに政治の主導権を持ってこようとしていた。
そのため、王族と高官の間では、常に権力の綱引きがあった。
ただし、4代王の世宗(セジョン)は優秀な学者や官僚をどんどん育成していった。彼は、見識のある人物たちが賢人政治を行なうべきだという考えを持っていたからだ。実際、世宗の偉業とされる“ハングル創製”も優秀な学者たちと一緒になって実現させたものである。
そういう意味では、世宗は高官や学者をうまく使った王である。それだけ、王族の影響力は弱まってしまったのだが……。
それに対し、世宗の二男の首陽大君には不満があった。特に、世宗にとても重用された金宗瑞(キム・ジョンソ)に強烈な対抗意識を燃やしていた。
つまり、首陽大君と金宗瑞は、王族の代表と高官の代表という意味で、朝鮮王朝でずっと続いていた典型的な対立軸だった。
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首陽大君(スヤンデグン)が起こした癸酉靖難(ケユジョンナン)とは何か