[文宗(ムンジョン)王后の人物データ]
文定王后の生没年/1501~1565年
文定王后が王妃になった年/1517年
文定王后の夫/11代王・中宗(チュンジョン)
文定王后の息子/13代王・明宗(ミョンジョン)
焼け死ぬつもりの世子
中宗の三番目の正室が文定王后である。
彼女は中宗との間に何人もの娘を産んだが、なかなか息子に恵まれず、それが悩みの種だった。
1534年、王妃になって17年目にして彼女はようやく息子を産んだ。それが慶源(キョンウォン)大君だった。
「なんとしても、この子を王にしたい。しかし……」
文定王后が念願を叶えるのは難しかった。中宗の二番目の正室が産んだ世子(セジャ/国王の正式な後継者)がいたからだ。世子がいるかぎり、慶源大君が次の王になる可能性はなかった。
それでも、文定王后はあきらめなかった。彼女の手先が、世子の寝殿に火をつけた。世子を焼き殺そうとしたのである。
火事に気づいた世子は妻に先に逃げるように言い、自分はそのまま寝殿に座したままだった。
「早くお逃げにならないと焼け死にます!」
妻が絶叫しても、世子は動かなかった。彼はこのまま焼け死ぬつもりだったのだ。
世子は、継母の仕業(しわざ)であることを見抜いていた。そのうえで、世子はこう決心した。
「母が私を殺そうとするのであれば、潔く死んでさしあげよう。子としても、親の願いを叶えるのが本当の孝行なのだから」
妻は信じられない思いだった。「こんな人間がいるのか」とただ驚くばかり。しかし、妻も自分だけ逃げるわけにはいかないので、一緒に寝殿に座したままだった。
あやうく夫婦は焼け死ぬところだったが、救助の人間に促されて寝殿が焼け落ちる前に助け出された。
この一事で世子という人間がよくわかる。朝鮮王朝時代を通じて、これほど“孝”に徹した息子は他にいないかもしれない。
中宗が1544年に世を去り、世子が12代王・仁宗(インジョン)として即位した。彼は29歳になっていたが、子供がいなかった。5歳で世子になったのに、なぜ彼は子供をつくらなかったのか。
それは、自分の次に慶源大君を王位に就けるためだった。それが、継母である文定王后に報いる道だと仁宗は本気で考えていたのである。
これほどの孝行息子なのに、文定王后は仁宗に冷たく接した。そのせいで、仁宗の心労が大きくなった。
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