中宗(チュンジョン)は結局は「代理の王」だったのか

恐怖に似た感情

意味ありげな葉を自ら仕込んだ者が、中宗に接見して言った。
「殿下、これをご覧ください。これは大問題でございます。趙光祖の思い上がった態度が葉っぱに現れています」
中宗も葉を見て仰天した。
すかさず、命令を出した。
「ただちに趙光祖をとらえ、官職を剥奪した上で島流しにするのだ」
しかし、趙光祖を慕う者たちが大挙して、無罪を主張し始めた。その姿を見た中宗は、かえって不気味に思った。
「ここまで人心を掌握しているとは……。まさか、本当に彼は王位を狙っているのではないのか」
それは恐怖に似た感情だった。
1519年12月、中宗は趙光祖を死罪にした。
一方的な勘違いで死に至った趙光祖。彼を失ったことは、中宗にとっても大変な痛手となった。




以後、中宗が行なった統治には混乱が多かった。
結局、急に即位した「代理の王」は能力を発揮できなかったのだ。

中宗(チュンジョン)の挫折!理想的な政治ができなかった国王

中宗(チュンジョン)と燕山君(ヨンサングン)の異母兄弟同士の確執!

中宗(チュンジョン)はなぜ文定(ムンジョン)王后の悪行を止めなかった?

『七日の王妃』の端敬(タンギョン)王后はどんな女性だったのか

中宗(チュンジョン)はなぜ端敬(タンギョン)王后を守れなかったのか




固定ページ:
1 2

3

関連記事

ページ上部へ戻る