- 2021-4-2
- 韓国時代劇の登場人物
- 太宗, 朝鮮王朝, 歴史
朝鮮王朝の3代王・太宗は、初代王・太祖(テジョ/李成桂〔イ・ソンゲ〕)の五男だった。兄弟同士の骨肉の争いを制して、彼は1400年に朝鮮王朝の3代王として即位し、王朝の基盤を整備した。
異母弟との確執
太祖には8人の息子がいた。
第一夫人の神懿(シンイ)王后から6人の息子、第二夫人の神徳(シンドク)王后から2人の息子が生まれた。
この8人の息子の中で、朝鮮王朝の建国に一番貢献したのが五男の芳遠(パンウォン/後の太宗)であった。
彼は策謀が巧みな武闘派だった。
しかし、太祖は神徳王后との間にできた八男の芳碩(パンソク)を溺愛して、まだ10歳だったのに世子(セジャ/正式な後継者)に指名した。
芳遠は怒った。実の兄たちならば許せるが、まだ幼い異母弟が世子になることは絶対に容認できなかった。
芳遠が警戒したのが、太祖の側近だった儒学者の鄭道伝(チョン・ドジョン)である。彼が芳碩の後見人だった。
1398年、芳遠は奇襲攻撃を仕掛けて鄭道伝の命を奪い、続けて芳碩を殺してしまった。
太祖は逆上したが、病床にあったので五男の暴走を止められなかった。
こうして芳遠は朝鮮王朝の最高実力者となり、太祖に譲位をうながして、兄(太祖の二男)の芳果(パングァ)を2代王・定宗(チョンジョン)として即位させた。
しかし、実権は芳遠が握っていた。つまり、定宗は芳遠の操り人形にすぎなかったのである。
そうした状況の中で、太祖の四男の芳幹(パンガン)が王位に執着して挙兵した。しかし、彼も芳遠の力に対抗することができず、結局は挙兵に失敗した。それが1400年のことだった。
乱を平定した芳遠は、定宗を退位させて、満を持して3代王の太宗となった。
王になった太宗だったが、悩みの種は父である太祖との不和だった。
太祖は息子の即位を認めず、王の証である玉璽(ぎょくじ)を持って故郷の咸興(ハムン)に引きこもってしまった。
太宗は、重ねて太祖に使者を送った。しかし、使者たちはことごとく殺されて都に戻ってこなかった。
こうして親子の不和は続いたが、最後は太祖が信頼する無学(ムハク)大師に説得されて、玉璽を太宗に渡した。
このように父の許しを得た太宗は、名実ともに朝鮮王朝の国王となり、創設まもない王朝の基盤づくりに実力を発揮した。
朝鮮王朝が518年間も続いた長寿王朝になったのは、3代王の太宗の功績がとても大きい。
そういう意味でも、朝鮮王朝の27人の王の中で、太宗は一番の権力を持った強大な王であった。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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