1392年に朝鮮王朝が建国された時点から、世宗(セ)(ジョン)がハングルを公布するまでの出来事をまとめました。
◆1392年から1396年まで
〔1392年〕高麗(コ)(リョ)王朝の武将だった李成桂(イ)(ソン)(ゲ)が最高実力者となり高麗王を追放。朝鮮王朝を創設し、初代王・太祖(テ)(ジョ)として新しい法整備に取り組む。
〔1393年〕国号を「朝鮮(チョ)(ソン)」に決定。この「朝鮮」は紀元前に脈々と続いた国名であり、由緒ある名を受け継ぐ形となる。
〔1394年〕高麗王朝の都は「開城(ケ)(ソン)」であったが、新しい王朝に最適な場所に遷都する必要性を痛感した太祖は、風水思想に基づく適地を模索。生命の「気」が満ちる場所として漢陽(ハ)(ニャン)が選ばれる。都にふさわしく漢城(ハン)(ソン)とも呼ばれたこの都市は現在のソウルである。
〔1395年〕正宮となる景福宮(キョン)(ボッ)(クン)の建設が始まる。正門の位置をめぐって論争が起きる。仏教の僧侶は「南側に火を起こす気があるので、正門を東向きにしたほうがいい」と主張し、儒教学者は「王は南に向かって政務を行なえば王朝が長続きする」と反論。激論の末に太祖は「南向き」を採用。この決定は朝鮮王朝が儒教を国教にすることを暗示する。以後、「崇儒排仏」という「儒教を尊重して仏教を排斥する」政策が断行される。
〔1396年〕太祖の二番目の正室で、王朝創設時から王妃だった神徳(シン)(ドク)王后が世を去る。彼女の息子の芳碩(パン)(ソク)が次代の王を意味する世子(セ)(ジャ)だったが、神徳王后の死去で王の後継者争いが激しくなっていく。